去る6月16日に主催させていただいたイベント「有無に抱かれ、私を産む」。わたしはそのイベントの始まりの挨拶で、ご来場の皆様に向けてお話しをしました。
本来、私はこの空間の主役ではありませんから、挨拶は5分程度で手短に終わらせるつもりでした。しかし、会場に集われた皆様から発せられる熱量やエネルギーに触れているうち、どうしても伝えたい思いが溢れ出し、ついつい言葉を重ねてしまいました。
その中で、私が最も皆様の心に届けたかったこと。
私は、ステージ上に置かれていた一輪のユリを実際に手に取り、こうお伝えしました。
「女性は例外なく、誰もが美しく咲く『花』です。ただ、まだご自身がそれに気付いていないだけなのです」と。
それは、有末先生の演出のために用意したユリの花。イベントの前日に購入しておいたんです。私はその命の象徴であるユリの花を手に取ったとき、自然と口から出た言葉です。
そして女性が誰もが「花」であるというのは、紛れもない事実。ある女性はもしかしてユリかもしれないし、ある女性はバラかもしれない。タンポポかもしれないし、ヒマワリかもしれない。
ユリはユリとして咲き誇る姿が最も美しく、バラはバラとして咲き切ることが命の使命です。タンポポが「私はヒマワリになりたい」とは決して言わず、自らが持って生まれた命の形を、ただ真っ直ぐに全うするだけなのです。
しかし現代を生きる女性たちは、男性的な競争社会のサイクルの中に身を置いています。「男女平等」という正義を装った陰で、圧倒的に異なる性質を持つ命同士が同じレールを走らされ、いつしか自分が「女性」であること、一つの美しい命であることすら意識しづらい世の中になってしまいました。その喧騒の中で、自身の本来の姿が「花」であることを忘れてしまうのも無理はありません。
だからこそ、思い出してほしかったのです。あなたは「花」であり、本来のその花を咲かせることで一番の輝きを放つということを。そして、一度咲き誇ったその花の本質的な美しさは、周囲を照らし生涯を通じて失われることはありません。
あなたという花が唯一、枯れゆく時。それは、あなたがこの世で自らに課したすべての使命を終えた時です。その静かに枯れゆく姿すらも、自分の役目を全うした証として、清らかで、限りなく美しいものなのです。
このブログの冒頭に添えられた写真をご覧ください。
このユリは6月15日に花開き、この記事を書いている7月5日に最も美しい姿で枯れ尽くしました。約3週間、このユリはユリとして自身の生涯を輝かせ、最後の最後まで周囲を明るく照らし続けてくれました。
無源









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